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今どきの住まい・暮らし

2021.08.10

浦和Stories vol.6|「浦和のうなぎを育てる会」インタビュー

浦和にゆかりのある方にご登場いただき、エピソードを通じて、上質で新しいものを生み出す「浦和」の街と人の魅力を伝える企画「浦和Stories」。

第6回目の今回は伝統文化の継承をテーマに、浦和の伝統料理「うなぎ」について紹介します。

浦和住宅展示場ミライズで開催された、「浦和のウナギ伝統文化体験」イベント時に、協同組合「浦和のうなぎを育てる会」のキーパーソンであり「浦和のうなぎを育てる会」代表理事で、80年以上続く老舗うなぎ店「中村家」2代目の大森好治さん(79歳)と、3代目の勝年さん(50歳)、さらに4代目の央晴さん(20歳)の3世代に、浦和のうなぎ職人として伝統文化の継承についてお話を伺いました。

INDEX

「浦和のうなぎ」が今に受け継がれてきたルーツ

――「浦和のうなぎ」が受け継がれてきたのはなぜですか?

「浦和のうなぎを育てる会」代表理事で、80年以上続く老舗うなぎ店「中村家」2代目の大森好治さん。

好治さん:もともと旧浦和市には古くから営業するうなぎ屋が多く、昭和30年代は、少し歩けばうなぎ屋に当たるほどたくさんあったんです。今は15軒程度になってしまいましたが、当時は50軒くらいありましたね。

勝年さん:かつての浦和は江戸に上る途中にある、中山道の宿場町として栄えた歴史があります。湿地帯で池が多い土地柄、うなぎや鯉、川魚を獲って提供していたことが始まりです。

「中村家」3代目の大森勝年さん。

―― お2人とも先代から家業のうなぎ屋を受け継いできましたが、どんな流れで継ぐことになりましたか?

勝年さん:もともと洋食のシェフだった父は、先代が亡くなってから継いでいるので、「中村家」独自のスタイルは継承しつつ、そこから50年かけて今の「中村家」のスタイルを築いていったかたちです。

僕や兄は小さい頃から店の手伝いをしていてうなぎ屋が身近にあり、自然なかたちでしたね。いずれは店を継ぐ前提で、兄は日本料理店、僕はホテルマンとして修業し、その後、継いでいます。

後継者の育成のために始動した「浦和のうなぎを育てる会」

―― 「浦和のうなぎを育てる会」は協同組合ですが、なにを目的に発足されましたか?

好治さん:よくうなぎの養殖を推進する会だと思われるのですが、後継者の育成がおもな目的です。伝統文化としての「浦和のうなぎ」を広めるために、平成5年に発足しました。

勝年さん:「浦和のうなぎを育てる会」を通じて、同業の横のつながりを築いてきたのがうちの父で、うなぎの街づくり、伝統文化の発展のために尽力してきました。

今は職人の全体数が減っているほか、職人さんの年齢層も高くなり、若い人が少ない現状があるなかで、業界を拡大していくために発足し、すでに20年以上経ちました。おかげさまで「浦和のうなぎ」はだんだんみなさんに認知されるようになり、僕の20歳になる息子の央晴も店を継ぐ予定で、現在他店に修業に出ています。

こうした継承をもっと増やして、街として「浦和のうなぎ」を発展させていきたいと考えて、活動しています。

そもそも浦和には観光名所もなく、実はうなぎの養殖場もありません。一方で、せっかく地元にはうなぎを食べてくれる人がたくさんいるので、広大な夢ですが、うなぎの養殖池を作るなど、生産拠点として発展させていきたいという思いもあります。

好治さん:何をやるにしても、夢を持っていないとできませんよね。「こうなったらいいよね」というビジョンを明確に持ちながら、この先も伝統文化「浦和のうなぎ」が途絶えることなく継承していけたらいいなと考えています。

―― ビフォーコロナでは、海外からのお客さんの反響はいかがでしたか?

好治さん:残念ながら、埼玉県内でも小江戸の街並みで有名な川越とは違って、浦和に観光に来る方は少ないのが現状ですね。

勝年さん:一方で、さいたま市はうなぎの消費量が日本一(※)ともいわれ、なにかにつけてうなぎを食べに行く人も多く、地元の“うなぎ愛”は強いと感じています。

これまでの働きかけにより、みなさんに浸透しているのかなと感じているので、今後もさまざまな企画やイベント促進で、観光も含めた街づくりにも貢献できればと思っています。
※年によって異なる。

―― あえて4代目になる予定の央晴さんをすぐに継がせず、他店に修業に出したのはなぜですか?

好治さん:僕もそうだったのですが、先代が亡くなってから継いでいるので、直接教わった部分はないんですよ。他店で勉強することで、いろんなことを吸収した方が、きっと成長できると思うんです。

勝年さん:僕も兄もうなぎ屋には修業に出ていないこともあって、他店の技術を取り入れることも必要だと考えました。よりよい技術やいろんな仕事の仕方を学び、自分の幅を広げた上で、浦和の地で生かしてほしいですね。

―― うなぎ文化の継承も含め、央晴さんへの期待は大きいですね。今日の浦和住宅展示場ミライズでのうなぎのイベントでは、子どもたちもたくさん来てくれましたが、そのなかから後継者が出てきたら理想的ですね。

勝年さん:伝統文化「浦和のうなぎ」を広める活動の一環として、小学校に講習しに行くこともありますよ。

好治さん:でも、子どもたちに「うなぎ屋になりたい人〜?」と聞いても、なかなかいないのが現状(笑)。意外と女の子が手を挙げてくれることもあって、頼もしいかぎりです。大変な仕事なので、これまでは男の仕事とされてきましたが、これからの時代は、女性のなり手が出てきたら嬉しいですね。

「浦和のうなぎ」を根付かせるために必要なこと

―― 「浦和のうなぎ」を通じて、どんなカルチャーを根付かせていきたいですか?

勝年さん:さいたま市浦和区のマスコットキャラクター「浦和うなこちゃん」は、やなせたかし先生に伝統文化の「浦和のうなぎ」に寄り添っていただくことでできた経緯があります。あのキャラクターができたのが16年前で、「浦和のうなぎを育てる会」を発足したのが20年前。ようやく20年かがりで「浦和のうなぎ」が根付くようになりました。

「浦和ではおいしいうなぎが食べられるから、別の土地から友達が来たら食べに連れて行く」といった文化を作らなければなりません。そうしないと、「うなぎ屋になりたい」「うなぎ料理を作りたい」という人も増えないだろうと思っています。

これまで小学校でうなぎ文化の講習を受けた子どもたちはすでに成人しています。そのなかから1万人に1人でもいいから、「うなぎ屋になりたい」という人が出てきたらいいなと思います。

今のところ、1人だけですけど、小学校に講習に行ったなかで職人になってくれた子がいました。それが5人、10人と増えて、「うなぎ職人っていい仕事だよ」とまわりに夢を語ってくれるようになれば、理想的です。

―― コロナ禍で毎年恒例の「さいたま市浦和うなぎ祭り」が中止となるなか、今回、浦和住宅展示場ミライズでイベントを開催した感想はいかがですか?

勝年さん:これまで20回近く開催してきた「さいたま市浦和うなぎ祭り」は、何万、何十万人を動員するイベントに成長することができました。規模は違いますが、「浦和のうなぎ」が集客に役立つのは嬉しいですね。

「さいたま市浦和うなぎ祭り」も今回のイベントでも、「浦和のうなぎを育てる会」のメンバーに協力いただいているので、その結集力が積み重なり、「浦和のうなぎ」のイメージが20年をかけて強く浸透しているのを実感しています。

―― 地道に積み上げてきたからこそ、伝統文化「浦和のうなぎ」のコンテンツ力が発揮できるわけですね。最後に、今後のビジョンについて教えてください。

好治さん:今後もイベントのなかだけで収まるのではなく、着実に文化の発信につなげていきたいです。今後、養殖場を作るにあたっては、場所探しや造作の仕方などの課題があります。

でも、完成して流れができてしまえば、浦和だけでなく、大宮や岩槻などさいたま市全体に波及するイベントにもつなげられると考えています。うなぎの産地・浜松の養殖業者とも付き合いがあり、現在、養殖場の視察を進めながら仕掛けづくりをしているところです。

勝年さん:池づくりをするにしても、水がきれいでないと養殖できないので、環境づくりにも注力する必要がありますね。

「浦和のうなぎ」の継承者として期待のホープ、20歳の夢

祖父・好治さん、父・勝年さんに次いで、イベント開催中、「浦和のうなぎを育てる会」の若手の即戦力として活躍いただいた20歳の央晴さん。作業の合間をぬって、「浦和のうなぎ」を継承していく覚悟やビジョンについて伺いました。

4代目の大森央晴さん。

―― うなぎ屋を継ぎたいと思うようになったきっかけはなんでしたか?

央晴さん:小さい頃から店で父や叔父、祖父が仕事しているのを見るのが好きでした。そうした環境なので、その頃からいずれは店を継ぐことを自覚していましたね。

今は東京・日本橋のうなぎ屋「いづもや」さんで修業させていただいていて、浦和の実家から通っているので、毎朝4時20分起きで大変ですけど、職場はみんないい人ばかりで、充実した毎日です。

―― どんなうなぎ屋になりたいですか?

央晴さん:80年以上続いてきたので、第一に店をつぶしてはいけないということ(笑)。これまで先人たちが培ってきたことを、今修業して学んでいることを生かしながら継承していきたいです。

修業先の店では、扱ううなぎにしても、白焼きの焼き方にしても実家の店とは違います。ほかにも仕込みや串打ちなど、ひとつひとつのことがとても勉強になっています。

―― 地元で育ったなかで、伝統文化「浦和のうなぎ」をどのように感じてきましたか?

央晴さん:浦和に「うなぎ祭り」があるのがあたりまえだと思って過ごしてきましたが、今は「浦和のうなぎを育てる会」の功績が大きかったのだと感じています。とくに、会の発起人で代表理事を務める祖父は、地元の飲食店の人には知らない人はいないくらい顔が広く、街づくりに貢献してきた人で、尊敬しています。

父からは、祖父が積み上げてきたことが大きいので、「今修業している店でも祖父の顔をつぶさないように」といわれています。

―― 4代目として店を受け継ぎ、「浦和のうなぎ」を発信し、伝統文化を継承していく上でのプレッシャーはありますか?

央晴さん:ほぼプレッシャーしかないかもれしれません(笑)。なにもいわれていなくても、80年以上続く家業を継ぐ上での圧は身内からはありますね。

現在はまだまだ知識も技術も足りないことだらけで、できることにも限界がありますが、先輩方の仕事ぶりを見て、事前の準備や段取りなど、日々たくさん学ばせていただいています。

家業を継いだらもう修業はできないので、今は全神経を集中してアンテナを張って、いろんなことを吸収するようにしています。

―― 浦和で家業を継いだら、どんなことを生かしていきたいですか?

央晴さん:家業を継いだら、修業先で得たことを生かしてより発展させて、ひとつひとつのうなぎをちゃんとていねいに作って提供していきたいです。ていねいな仕事を意識することで、自然とお客様にも来ていただけるのではないかと思っています。

***
浦和で80年以上続く老舗うなぎ屋「中村家」の2代目として、街をあげて伝統文化「浦和のうなぎ」を地域に根付かせてきた、大森好治さん。

数十万人を集める規模に成長した「さいたま市浦和うなぎ祭り」でも見てとれるように、地元で伝統文化を浸透させてきた功績は大きいものがあります。

今回のインタビューを通じ、そんな好治さんたちの活動が、息子や孫の代に着実に受け継がれ、未来の明るい道筋が見えてくるようでした。

世代を超えて続いていく住まいや暮らしを提案する浦和住宅展示場ミライズでは、これからも世代を超えて継承されていく伝統文化の大切さを伝える活動を支援していきます。

取材協力/EDIT for FUTURE、撮影/榊原亮佑

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