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今どきの住まい・暮らし

2021.10.05

浦和Stories 特別稿|青木裕子さんインタビュー

毎回、浦和にゆかりのある方にご登場いただき、エピソードを通じて、上質で新しいものを生み出す「浦和」の街と人の魅力を伝える「浦和Stories」。

今回は、9月20日(祝)に「浦和住宅展示場Miraizu」で開催されたスペシャルトークショーにご登場いただいた、フリーアナウンサーの青木裕子さんを直撃。

青木さんは埼玉県出身で、県下でも優秀な県立浦和第一女子高校に進学し、浦和で学生時代を過ごしました。そんな浦和にゆかりの深い青木さんに、浦和での思い出、育児や仕事のことについてお話を伺いました。

INDEX

9月20日(祝)に行なわれた浦和住宅展示場Miraizuでのトークショーにて。

子どもの頃、そして浦和一女時代の浦和の思い出

――浦和に関して、子どもの頃の思い出はありますか?

青木:よく北浦和行きのバスに乗って、スイミングスクールに通っていました。当時、スイミングスクールがあった北浦和のサティにはよく母と行っていて、子どもの頃の洋服は、ほとんどサティで買ってもらっていたと思います。

浦和は県庁街なので、大人の街という印象がありました。古本屋などの渋い専門店が多く、母がパッチワークを習っていたので、よくユザワヤに行っていましたね。

―― その後、県下でも優秀な県立浦和第一女子高校に進学されますが、当時の思い出を教えてください。

青木:浦和一女は本当にいい学校で、良い友人にも恵まれ、楽しかったですね。はじめは実家から自転車で通っていましたが、夏の暑さや冬の寒さに耐え切れず、途中から電車通学に切り替えましたが(笑)。

浦和一女は自由な校風で、私は声をかけられたことがきっかけで高校生活と並行して読者モデルをしていました。まわりも、金髪に近い髪色なのに、テストではちゃんといい点をとる子や、自分の意見をしっかり持っている子が多かったですね。良い意味で自由で、生徒の自主性を尊重する学校だったと感じています。

高校時代、浦和駅前のコルソの地下のたいやき屋さんにはしょっちゅう通っていました(笑)。それからなにかにつけて、たとえば高校のイベントの打ち上げなどで、街のお好み焼き屋さんにも行っていましたね。

浦和で育んだ学生時代を経て、アナウンサーへの道のりは?

―― 高校時代から読者モデルとしても活躍されましたが、芸能界に興味があったのですか?

青木:読者モデルになったのは、高校1年生のときに渋谷で声をかけられたのがきっかけです。当時、読者モデルブームがあって、高校生活と並行して部活動みたいな感じで楽しんでいました。

―― 大学時代の思い出や、当時の将来の夢について教えてください。

青木:埼玉の実家から、慶應大学の日吉キャンパスや三田キャンパスに通っていたので、今考えるとなかなかの遠さでしたね。20歳まではとても厳しい家でしたが、成人してからは決まりがなくなったので、人生で一番自由に遊んでいました(笑)。

学生時代にミス慶應に選ばれたのを機に事務所入りすることになり、芝居のレッスンをしていたので、続けていきたいと思っていました。

当初は、アナウンサーを目指していたわけではなく、モデルやお芝居をがんばるつもりだったのですが、その間、オーディションなどでたくさん挫折も経験したんです。

そうこうしているうちに大学3年になり、まわりが就活をするのを見て、焦り始めました。そこでアナウンサー試験を受けてみたのがきっかけで、ご縁があってTBSに入社しました。

TBSアナウンサーとして体験した貴重なこと

―― TBSでのアナウンサー時代を振り返ってみて、いかがですか?

青木:子どもの頃から家庭では、あまりテレビを観る習慣がなかったんです。そのため入社当初は、アナウンサーのあり方はもちろん、わからないことだらけでしたね。

そんな中で、TBSでは多くの番組に出演させていだき、さまざまな方と出会い、いろんなところに行く機会がありました。当時は、当たって砕ける感じで、今思えば「もっとうまくてきたんじゃない?」と思うことも多々あります(笑)。今戻れるなら、もっと味わい尽くしたかったくらい、貴重な経験をさせていただきました。



最近も、育児をしながら家でオリンピックを観ていたときに、かつて世界陸上に出場するトップアスリートに取材したことを思い出しました。あらためて「すごい経験をさせていただいていたんだな」と実感しましたね(笑)。

「自然体」はがんばった末に身につけられるもの

―― 現在、育児中心で仕事をするスタンスとのことですが、青木さんは、今も局アナ時代も、いい意味で自然体であるように感じます。

青木:局アナ時代も、ありがたいことに、諸先輩方から「青木らしくいればいいんだよ」とアドバイスいただくことが多かったんです。スポーツの現場でも、若い頃はその言葉を真に受けて、今思えば、「なんてバカなことをしてきたんだろう」と思うこともたくさんありますよ(笑)。

でも、仕事を続けていくうちに、自然体って自然にやっていても出てこないということがわかってきました。自然体というのは、たくさん経験したり、勉強したりした上で成り立つものなんですよ。

その経験は、現在、育児をする上でも活きているかもしれません。「子どもらしく自然に育てたい」という気持ちはありますが、かといって放任したり、好き勝手にさせたりすればいいわけではありません。考え抜いた末に見出せるものなんだと思います。

ナチュラルメイクも同じですよね。実は、ナチュラルに見せるメイクってすごく手が込んでいたりします。まわりでも、いつも素敵に自然体で楽しそうにふるまって見える方ほど、実は影でものすごくがんばっているんだなと感じます。

浦和エリアで育まれ、今、感じること

―― 現在の暮らしと、浦和の街について感じることはありますか?

青木:今は家族で都心に暮らし、働く場所と住まいが身近です。それはそれで便利ですが、浦和の場合、働く場所と住まいが程よく離れていることの安心感があるように思います。私も時々実家に帰るとホッとしますし、そういうところが浦和のいいところなのではないでしょうか。

今は、思い切って人里離れた田舎暮らしに踏み切る人も多いですが、その点、浦和エリアは交通の便もよく、生活まわりのことは駅周辺で事足りる環境があります。都会すぎず、落ち着く空気感が融合しているところがあって、いいバランスで両立できる街ですよね。

―― 青木さんにとっての“理想の住まい”のイメージは?

青木:子どもの成長に寄り添う家にしたいと考えていて、今は、子どもたちが思い切り遊べる広いスペースを優先しています。

子どもたちには、ずっと「階段があるおうちに住みたい」と言われていて、現在、家庭菜園を借りてやっているのですが、自宅の庭でできたら最高なので、戸建への憧れはあります。

もう少し子どもたちが大きくなったら、個室が必要になってくるので、それぞれの生活に合わせて理想の家を叶えられる注文住宅だと、ますます夢が広がりそうですね。

浦和住宅展示場Miraizuにて。

―― 今後のビジョンについて教えてください。

青木:まずは何より、2人の息子と向き合いながら、しっかり育て上げたいです。いざという時に側にいて寄り添える存在でいたいと思います。お仕事は、楽しんでやらせていただけることをありがたく思いながら、なんでも挑戦できればと考えています。

―― 最後に、読者にメッセージをお願いします。

青木:まだまだ手がかかる年頃だと、大変な時期ではありますが、子どもと過ごせる時間を楽しみながら、なるべく前向きにがんばっていきましょう。


174cmの長身に、シックで落ち着いた色のワンピースを身にまとい、現れた青木さん。親しみやすい笑顔と、気負わず、ゆったりとやわらかい口調でお話しする姿が印象的でした。

今回、インタビューさせていただき、青木さんを育んだ浦和の街は、多様性あるライフスタイルに応えられる街なのだと、あらためて実感させられました。

プロフィール

青木裕子さん

1983年、埼玉県出身。埼玉県立浦和第一女子高等学校卒業後、慶応義塾大学に進学。高校時代より女性誌で読者モデルとして活躍。卒業後は、TBSに入社し、アナウンサーに。「サンデージャポン」レギュラーなど、さまざまなバラエティ番組に出演。2012年末、TBSを退社してフリーに転向。翌年、ナインティナインの矢部浩之さんと入籍。現在、2児の育児をしながら、フリーアナウンサーとして活動。

取材・文/EDIT for FUTURE  撮影/織田桂子

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